ぺットのお墓:広島市佐伯区の有限会社寺本石材店

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ほのぼの通信

ペットのお墓の仕事をさせていただくようになって、 飼い主の方から亡くなったペットのお話をお聞きする機会が増えました。
家族の一員として愛され生活を共にし、幸せな生涯だったんだなぁ~とこちらにも熱いものが伝わってきて、涙が出そうになる時があります。
ここでは、胸にじ~んと来るお話を順次紹介させていただこうと思っています。
ほのぼのとした話、エピソードなどございましたらお知らせ下さい。

  1. 命のリレー(コロちゃん)
  2. さくらが残してくれたもの
  3. 我が愛するポン太とシャム
  4. ごめんね、ラッキー

第1話 命のリレー(コロちゃん)   広島市 M様

Mさん宅の柴犬のコロちゃんは、広いお庭や畑で遊ぶことに飽きると 時々脱走して外に散歩にでかけます。
一晩たてば帰って来ていたので家族の人たちもコロちゃんの脱走を大目に見ていました。
その日も、家族が気づくとコロちゃんの姿が見えません。
また一晩たてば帰って来るだろうとそれほど心配はしていませんでした。
しかしその日以来、3日たっても4日たってもコロちゃんは帰って来ませんでした。
家族の方たちは、コロちゃんを捜していろんな場所を尋ね歩きましたが、どこにもコロちゃんは見つかりません。写真入りの「尋ね犬」の貼紙も作り、家の近所や遠くのスーパーなどにもお願いして貼らせてもらい、必死にコロちゃんの行方を捜しました。
そのポスターが功を奏したのは、その日から3ヵ月後。1本の電話がありました。「交通事故にあった犬に似ています」と…。コロちゃんは、家の近くで自動車にひき逃げされました。ドライバーはコロちゃんを無視するかのようにそのまま逃走してしまいました。
コロちゃんは、血を流して道路に横たわったままです。ちょうどその場所に居合わせていた大学生風の男の子が、すぐにコロちゃんを抱きかかえました。彼の服はコロちゃんの血で汚れてしまいましたが、そんなことを気にすることも無く、彼は介抱を続けてくれました。
彼はタクシーを拾って病院へ運ぼうとしたのですが、客席のシートが血で汚れるため、運転手さんに断られてしまいます。一部始終を見ていた肉屋のおじさんが、ダンボール箱をもってきてくれて、コロちゃんを寝かせくれました。お店に居合わせた女の人も彼を手伝って、彼と一緒にタクシーでコロちゃんを病院に運んでくれました。病院では、最低限の簡単な処置しかしてもらえませんでした。飼い主の分からない犬には検査やら手術などというお金のかかる処置はできないそうです。コロちゃんは耳から出血もしていたので、頭も打っています。手当てをしても助からないだろう。というのが動物病院の先生の所見でした。
大学生の男の子も女の人も途方に暮れてしまいましたが、とにかくコロちゃんをこのままにしておく訳にはいきません。大学生の男の子の家は、江田島という瀬戸内海の島にあります。コロちゃんを連れて帰るには、電車に乗ってフェリーに乗り換えて…と、大変な作業です。それなのに彼は「僕がこの犬を預かります」と言って病院からコロちゃんを連れて帰りました。尋ね犬の貼紙を見て電話をかけてきてくれたのは、付き添った女の人でした。
さっそくコロちゃんの家族は、江田島に行きました。本当にその犬がコロちゃんなのかどうかは分かりませんが確かめずにはいられません。
コロちゃんは生きていました!事故の後遺症で視力も落ちていて、身体にも浮腫みがきていましたが、「コロ!」と家族が呼びかけると声のする方に顔を向け、うれしそうに尻尾を振り応えてくれました。こうして生きていることさえ奇跡なのに、コロちゃんは家族を忘れていなかったのです。コロちゃんとの再会に家族はただただ涙するばかりでした。
江田島に来てからは、コロちゃんは老夫婦に預けられました。学生の彼ではコロちゃんの看護が十分にできなかったからです。コロちゃんを預かってくれたこのご夫婦も本当にいい人で、献身的に看護してくださったそうです。歩けるようになってからは、散歩にも連れて行ってくださいました。海の側まで来るとコロちゃんは、沖を眺めるようにじっと座っていたので、「この犬は、海の近くで飼われていたのかしらねぇ。と話していたんですよ。」と、奥さんがおっしゃったそうです。
このようにして、コロちゃんは奇跡的に飼い主のMさん宅に帰って来ました。そして、それからしばらくしてコロちゃんは13歳の生涯を終えました。
あの事故がなければもっと長生きができたのに。と思うと残念ですが、コロは、見知らぬ親切な人々の手から手に預けられ命を助けられました。そしてまた私たち家族のもとに帰って来てくれました。
コロが死んでしまったことは悲しいけれど、コロの最期は家族で看取ってやれたことに満足しています。コロの命を繋いで守って下さった皆様には本当に感謝しています。 とMさんはおっしゃっていました。

第2話 「さくら」が残してくれたもの   福岡市: K 様

我が家の愛犬「さくら」が亡くなってもう4年になります。けれど、未だに我が家からさくらの存在は消えておりません。さくらがしていた首輪、お気に入りだったオモチャや食事用の器…。その一つ一つが私達にとってはさくらであり、大切な思い出です。
さくらは、子ども達が成長しそれぞれに独立して行った頃、我が家にやってきました。最初は「犬なんて面倒なものを…」と言っていた主人の方がさくらのかわいらしさにハマってしまい、帰宅も早くなり 「さくら。さくら。」と私達夫婦の生活も次第にさくら中心になっていきました。
さくらもそんな私達の思いに応えてくれて、日に日に絆も強まりました。もうペットではなくて、私達の娘です。さくらと接する時は私達は「お父さん、お母さん」と呼び合います。
さくらは、私達の足音を聞き分けました。車庫に車が止まる音がすると、さくらにはそれが主人の車であるかどうかが分かるのです。
家の中の何処にいても、主人が帰ってくると玄関先に駆けてくるので、私も「ああ、お父さんが帰ってきたのね」と言っていっしょに出迎えました。ドライブも旅行もいつもさくらは私達といっしょでした。たまに遊びにきてくれる息子たちの家族も皆さくらのことが大好きでした。孫達もさくらといっしょに大きくなりました。年月はあっという間に過ぎて行きました。
さくらに変化が見られたのは、14年目のことです。朝夕の散歩に出かけるのが何よりも楽しみだったさくらが、首輪をつけられることを嫌がるようになりました。私達が首輪を手に持つとお出かけの合図なので、自分からせがむことも多かったのですが、目の前に首輪を持っていっても、自分のソファーから立ち上がろうとはしませんでした。「さくらも人間の歳だともうおばあちゃんだから、散歩もおっくうになるのかしらね」と主人とも話していたのですが、日に日に食欲も落ちているのも気になっていました。
獣医さんに連れていくと、お腹に大きな腫瘍ができている事が分かりました。それまでも何度も病気はしていたのですが、すぐに良くなっていました。しかし心臓も弱っているためもう手術もできません。私達は、とにかく食欲さえ戻れば、またきっと元気になる…と信じてドッグフード以外のものでもさくらが口にできるものは何でも食べさせようとしました。けれど獣医さんからも「そう長くは生きられないと思うのでそろそろ覚悟しておいて下さいね」と、言われてしまいました。
その日から、私達夫婦はさくら中心の生活パターンになっていました。さくらを残して近くのスーパーに行くことさえも出来なくなったのです。その内に、さくらは水かミルクしか受け付けなくなり、歩行も困難になったためオムツをするようになってしまいました。それでも、タイのお刺身だけは何とか食べてくれます。さくらのために、私達の毎日の夕食には必ず刺身を買いました。
しかし、2日に一度の点滴で辛うじて生かされている…という風でした。さくらは一日の殆どを眠って過ごすようになりました。「さくら」と私達が呼ぶと、目を開けて上体を起こし弱々しく尻尾を振ってくれました。「ごめんね、ごめんね。寝ていていいのよ」 もうさくらのために私達がしてやれることは何も無い…そう思うといとおしくて悲しくて…。
さくらが亡くなった日は、とても寒い日のことでした。夜遅くまで主人はさくらの身体をなでてやりながらテレビを見ていました。一瞬、さくらの身体がピクッと痙攣を起こして息をしなくなりました。本当に一瞬のことで、苦しむ様子もなく穏やかだったそうです。私は最期を看取ってやれなかった後悔と悲しみで、気が変になってしまいそうでしたが、主人は「さくらはもう逝ってしまうんだ。苦しまなくてよかった」と思ったそうです。
息子達家族も呼んで、私達はさくらのささやかなお葬式をしました。火葬して遺骨も残しましたが、埋葬する気にはなれません。私は何ヶ月もの間さくらのことを思っては泣いて暮らしていました。そんな私のことを心配して、息子たちはまた犬を飼う事を勧めてくれましたが、もう私達も老齢なので世話も十分にできません。それにさくらの代わりになる犬なんて何処にもいない気がしました。 私は息子達の心遣いに感謝しながらも、断りました。
それから何日かして、孫達が来てくれました。 しかも、両腕にしっかりと子犬を抱いています。さくらと同じ白いマルチーズでした。 「この犬の名前はさくらだよ」と孫が言いました。 聞くと、『おばあちゃん達の代わりに僕達がさくらを飼ってあげたら、きっとおばあちゃんは元気になるよね。』と孫達が言ったので、散歩とゲージの掃除をするという条件で犬を飼うことにしたそうです。
犬も人間と同じで、同じマルチーズでもそれぞれに顔の作りや表情は違います。さくらとは明らかに違いますが、それでも私には孫達の気持ちがうれしくて、「そうね、本当にこの犬はさくらだわ。また戻ってきてくれたのね」と言って喜びました。
私は本当にこの時、この子犬がさくらの生まれ変わりのような気がしたのです。
あれから4年がたちました。子犬のさくらも、孫達の愛情をいっぱいに受けて大きくなりました。私達の「さくら」は2代目「さくら」の中で生きています。孫達は約束を守って、毎日の散歩とゲージの掃除はちゃんとやっているようです。命の大切さもさくらを通してきちんと学べているようだと息子夫婦も言っています。
私はやっと小さなお墓を建ててさくらの遺骨を庭に埋めることができました。さくらを土に返してやれたことで、不思議と私の心も癒されたのです。
今は、庭の桜の花が満開です。風に散る桜の花びらを眺めていると、さくらのことを懐かしく思い出します。きっとさくらも天国から私といっしょにこの桜を眺めていることでしょう。

第3話 我が愛するポン太とシャム   川崎市: T・K 様

最近は公園などで散歩されているペットの犬を観ると、雑種犬など皆無のようです。しかし、わが家の「ポン太」は立派な?雑種犬でした。(笑)
14年前、子供たちがペットとして犬を欲しがったので、私と妻は、市の保険所を訪ね 安楽死させられる運命にある捨て犬の中からこの「ポン太」をもらってきました。まだ2ヶ月くらいの子犬で、毛は茶色っぽくてまるまるとしていました。犬と言うよりは、タヌキ?って感じだったので、名前も「ポン太」と名づけたのです。
ポン太は、大した病気もせず順調に大きくなりました。これと言った躾もしなかったし、芸の一つもする訳でもなく、番犬にもならず…の駄目犬でしたが、太っ腹で心根の優しい犬でした。
我が家には、いつの頃からか猫の「シャム」が頻繁に出入りするようになり、ちゃっかりとポン太の餌を食べてはプイッ!と何処かに行ってしまいます。どうもシャムネコのようなので、私が「シャム」と名づけたのですが…。飼い猫なのか野良なのかはわかりませんが、気位だけは一人前に高くて、ポン太の食事時に現れては、「お退き!」と言わんばかりに「ニャン!」と一言。ポン太は、怒るわけでもなく素直に餌を譲ります。それどころか、時にはシャムの背中を舐めてやっていました。シャムがひとしきり満足すると、残りの餌をポン太がきれいに食べています。
シャムは不思議と私にはなつきました。私がポン太を散歩させようとリードを握ると、どこからか現れては、私の前を誘導するかのように、背筋と尾っぽをピンと張った姿勢で時々後ろを振り返りながらついて来るのです。
そして、散歩の途中でいなくなり、私とポン太が家に帰り着くと、いつも先回りして家で待っているのです。私が「お疲れさん!」と言ってポン太の器に水を入れて差し出すと、「ニャ~!」と返事して、ポン太より先に水を飲みます。「ポン太しっかりしろよ~」と私はいつも心の中で思うのですが、当の2匹は、そのスタイルに満足しているように見えました。
そんな日々が2年くらい続いたある日、 家の前の道路でシャムが車にひかれました。即死だったようです。シャムの遺体は、道路公団か保険所の人かは知りませんが、回収して行ったそうです。
その日以来、ポン太は、ぼんやりと過ごすことが多くなりました。ポン太の視線はシャムがひかれた道路の辺りにありました。「そうか、寂しいのか」 私は、ポン太の背中をなでてやりながら「おまえ、いい奴だな~」って、熱い思いが込み上げてきて、不覚にも涙がこぼれてきました。
そして数年後、ポン太も死にました。家族の一員だったポン太の死は、さすがに悲しくてショックでしたが、ポン太を思う時、あの猫のシャムのことも同時に思い出され、ほのぼのとした温かい気持ちになれるのです。きっと天国でも2匹は仲良く食べ物を分け合って、幸せに暮らしていることだろう。

第4話 ごめんね、ラッキー   鹿児島市: M子 様

初めまして。ここの「ほのぼの通信」を拝見しました。皆さん、ペットとの良い関係を築かれていたことがよく分かり、とても心が和みました。
けれど、私が、我が家の愛犬ラッキーにしてしまったことを思うと、 後悔でいっぱいになり、せめて懺悔の気持ちをこれに書こうと思いました。
12月2日午後1時、我が家の愛犬ラッキーが永遠の眠りにつきました。10歳2ヶ月でした。脳血栓でした。
私がこの家に嫁いで来た時、既にラッキーは我が家の一員でした。つまりこの家では、私よりラッキーの方が先輩になる訳です。ふわふわした毛並みとまん丸な瞳の可愛らしい女の子でした。とても賢くて、私の事もすぐに覚えてくれて、なついてくれました。
我が家は二世帯住宅です。ラッキーは義母の部屋で生活していましたが、ドア一枚で行き来できるので毎日私のところへ遊びに来てくれて、心細かった私を慰めてくれていました。散歩も買い物もいつも私と一緒でした。
そして、私は結婚2年目にして待望の妊娠をしました。つわりもあったので、ラッキーとの散歩は良い気分転換になり、妊娠中もずいぶんラッキーに助けられたと思っています。そして、私は実家に帰り、元気な女の子を出産しました。
出産を終えて長女を連れて帰った私を、家族もラッキーもとても喜んでくれました。しかし、私は出産後で神経過敏になっていて、何事も悪く受け止めるようになっていました。いつも不機嫌で小さなことでもすぐに泣いていました。
あんなに可愛いと思っていたラッキーでさえ、赤ちゃんに悪い影響がでないかと心配になり、ラッキーに近づくことも部屋に入れることも避けるようになりました。
昼間、母と一緒について来るラッキーの毛が散るのが心配になり、ラッキーだけドアの外に追い出すこともしました。ラッキーは自分だけ部屋に入れてもらえない訳が分からず、前足でドアをたたき、キュ~ン、キュ~ンと悲しそうに鳴いていました。そして、私が外出するのを見つけて散歩をねだるラッキーの鳴き声も疎ましく、私は大声で叱りつけました。今思うと、どうしてあんなひどい事をしてしまったのか悔やんでいます。
一年ほどすると、私の心身の状態もよくなり、ちょっとだけ周りの人たちにも思いやれる余裕がでてきました。もちろん、ラッキーにも。以前のようになついてくれるかどうか心配でしたが、ラッキーは私を恨むこともなく、また元気に散歩や買い物について来てくれました。
そして、あの日・・・ 母が「ラッキーが動かない!」と言って部屋に駆け込んできました。急いで母の部屋に行ってラッキーを見ると、もう息をしていません。それでも身体はまだ暖かかったので、すぐに獣医さんに連れて行きました。しかし、手当ての甲斐もなく、ラッキーは死んでしまいました。
まだまだ生きてくれると思っていたラッキーの死はとてもショックでした。持病のない犬は、ストレスがなければ、もっと長生きするはず・・・ラッキーにとって、私のあの行いがストレスになってしまったのでは?
そう思うと、ラッキーに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、しばらくは立ち直れませんでした。しかし、夫や母が懸命に慰めてくれて、次第に私の心も落ち着きました。ラッキーのお墓も建ててやれて、今は毎日、手を合わせています。
手を合わせる行為って、不思議と心が落ち着くものですね。死んでからもラッキーは私にいろいろなことを学ばせてくれているようです。これからも、母として妻として、私はもっと強くなれなければ・・・
ラッキーのお墓に手を合わせるたびに、そう思っています。

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